僕の勝手な思い込み
おはようございます!
富山県射水市小杉エリアを中心に、人と住まいを結ぶ不動産屋 株式会社リボンの米山勝規です(*^_^*)
昨日は
経営者モーニングセミナー
娘保育園へ
事務作業
学生ランチミーティング
土地購入コンサル
無料相続相談
でした!
最近、大学生の知り合いが増えてきました。
射水の小杉駅近隣に、「富山県立大学」があり、小杉から富山市街へ向かう過程に「国立富山大学」があります。
どちらの学校にもちょっとずつ知り合いがいます。
というか、勝手に友達だと思っています(笑)
最近の若い子はおもしろいです。
彼ら(念のため申し上げますが、まだ女子の友達はいないw)と接することでいったい何が面白いのか、というと、それは、変わっていて、純粋だからです。
ちなみに、大学生の時点で社会人と接点を持とうという人は少ないです。
敢えて失礼な言い方をすると「変」です(笑)
周りから見ると「なにやっちゃってんの?」「なにがんばっちゃってんの?」「騙されるんじゃないの?」と浮きます。
そして、僕の友人たちはそういう周りの目をちゃんと認識しているし、ちょっぴり恥ずかしい気持ちも持っていて、ただ、その上で、「社会人と接点を持ってみたい」という好奇心がちょっぴり勝っている(時には突き抜けた人もいる)、ということだと思います。
そういう意味で、変わっていて、純粋なのです。
ある意味で、これまた周りの目を憚らずに申し上げますと、僕は日本の教育(少なくとも僕が歩んできた高校教育まで)は軌道修正する必要があると思うし、間違っているとさえ思っています。
知識レベルでの「不足」を言うと、経済やお金の使い方、動きなどの概念がすっぽり抜けていたし、自分自身を分析し、周りの「ニーズ」と自分が提供できる能力などの一致不一致をの概念などの学習でしょうか。。。
また、過度に「有りすぎる」教育内容は「周りより劣ってはいけない」「失敗しないのが良い」という概念の学習ではなかったか。
このあたりの議論は挙げればきりがないので終了。
要するに、実際に社会に出てみると、それまでの教育の「過不足」によって混乱し、道を見出せないリスクが非常に高まっているのではないか、という懸念からの「間違っている」という考えです。
とはいえ、自分は(もちろん不完全ですが)そういう教育にどっぷり浸かった上で、そういう道からは一旦はみだしてしまった(脱出することができた)人間でもあります。
それは何がきっかけだったかというと、
人との出会い
でした。偶然の出会い。
受験で失敗しなければいい学校に入れて、
就活で失敗しなければいい会社に入れて、
失敗しなければ社内で安泰で、
そう、それで、
幸せになれる。
はず。
そのように思っていましたかもしれないですが、実は最後の「それで、幸せになれる」という部分は、誰も触れてくれなかったゾーンであったはずです。
誰も「幸せになる」方法は教えてくれていなかった。
本当は、
いい大学に入って、いい会社に入る。
それで終了。幸せとは無関係であった(少なくとも僕にとっての最大の要因ではなかった)ことに気づいたのは、20代も後半にさしかかろうとしていた時期でした。
何かに裏切られてしまったような衝撃めいたものを感じたのを覚えていますが、確かに、この「それで、幸せになれる」という部分は僕の勝手な思い込みだったし、事実そうであった時代もあっただろうし、少なくとも当時の社会全体のおおよその共有認識でさえあったのかもしれないです。
しかし、この10年で世界(少なくとも僕の)のそういう常識はガラガラと音を立てて崩れていき、変わってしまいました。
いまからの10年をかけて、さらに大きな音を立てて世界は変化していくのが見えます。
彼らに誰がそれを教えてあげられるだろうか、
彼らに用意された「いずれ外されるハシゴ」から一旦飛び降りる勇気を誰が与えられるだろうか。
大げさに言えば、大人にはそんな役割があって当然だし、義務さえあると思うのです。
以前僕が偶然の出会いを経ていただいたプレゼント(恩)を、いま実践していて、
そういうプレゼントを送っていくことができるのであれば、その役を喜んで担いたい。
僕という小さな小さなきっかけでも、一つの事例として与えられるものがあるなら、惜しまず語りたい。
出会いを求めているなら、惜しまず紡ぎたいと思っています。
さて、本日も喜んで進んで働きます♪
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